講釈する人

今日も別所の庭。

相方の親戚になるお宅。
松が二本ある。
見ると、キレイに古葉を落としてある。

昨年、私たちが帰ってから
何日かかけて、二人で落としたと言う。
でも、先の方は出来なかったので
今年は、先の方だけでもしておいて欲しい、 とのこと。

毎年これは頼まれるが
他所との関係でしなかった。
しかし今年は、少しだけしようと取りかかっていると

主人が出てきて
少しだけでいいから、と気を遣う。

私は、集中力が切れそうになると
横にある五葉の松の
古葉を落としながら松の剪定をした。

古葉を落としてから
残りの剪定をしていると、家の主人の友達が来て講釈を始めた。

この方、自分の庭は
自分で剪定しているという。

五葉の松を見て
(ここの五葉はすばらしい、
 五葉は中の古葉をキレイにしなければ、)
といって、中を見たが





五葉松①
五葉松。 葉が五本ずつ束になってつく。





キレイにした後だったので、手持ち無沙汰になったのか
帰って行った。

剪定先もいろいろ。
こうした講釈を聞くこともある。




砂の美術館

今日は朝から雨、
昼前に神さんが来た。

前から約束していた
鳥取砂丘にある砂の美術館に行く。

途中で昼食を取り砂丘へ。
今回は (砂で世界旅行・アメリカ編)。
砂丘に着くと
雨は降っていたが、まだ大した雨ではなかった。

建物の周りは、前回来た時よりきれいに整備されていた。
雨にもかかわらず、沢山の人が訪れていて
外国の人も沢山。 

中に入ると、
正面にナイヤガラを模した建物いっぱいの滝がある。
その上には初代大統領ワシントンと何人かの人物の顔。
下にはデラウェア川を渡るワシントンの像。




ワシントン




その脇には
ニューヨークの摩天楼、等等、
19の作品が飾られていて
毎度のことながらその見事さに目が奪われてしまう。




自由の女神とあ
ニューヨークの摩天楼




アメリカのスポーツ
アメリカのスポーツ




とあ①映画
アメリカの映画  




奴隷解放の父、リンカーン
奴隷解放の父、リンカーン




世界の砂像作家19人が
腕をふるって、見事な砂像美は圧巻のひとこと。
今回はいつにもまして
迫力があった。

開館は二日前の15日で
来年の1月3日までの長期開催である。

今年の2月、
香川の銭型砂像を見た。
これはこれでよかったが、スケールが違いすぎる。

皆さんも
鑑賞されてはいかがでしょう。



また雪が

起きてみると
外がやけに明るい。

日照時間が延びたとはいえ
一寸早すぎる、と思い出てみると、また雪である。

すでに5cmほど積もっている。
その上気温が低く、寒い。
雪は降り続いている。

今日から、少しずつ果樹の剪定を始めよう、と思っていたが
また延期になった。

家の中で、何をするでもなく過ごす。
雪は、昼過ぎまで降ったりやんだりして3時頃止んだ。

今からの雪は
水分を多く含んでいるので、解けるのは早い。

今までの雪よ、早く解けてくれ。
雪深い地域の方には申し訳ないが
これが今の私の願いです。


’16 四国へ ② 宝泉坊 

夕方、姉が
「温泉に行ってきたら」
と言ってくれたので、出かけた。

『クアテルメ 宝泉坊』。町おこしで作られた大きな温泉施設。



宝泉坊



服を脱いでいると
「もんち来なったかなー」と声が掛かる。
振り返ると
一つ先輩の中本さん、
子供時分から、この地で頑張っている人だった。

懐かしく挨拶を交わして
中に入ると、小さい子供も何人かいる。
こんな場所で子供を見ると、ホッとする。

この頃は、どこに行っても
遊んでいる子供を見かけることが殆どないからだ。

風呂の中で聞く
古里訛りも、心底、懐かしい。

風呂から上がると
冷たい水と、小梅の梅干が用意されている。
食べたいだけ どうぞ。

梅干は、私の大好物。
いつも、5、6個は頬張って帰ってくる。

帰るといつもの酒盛りになって、
その後は
ふるさとの第一夜が静かに過ぎていった。

’16 四国へ ①  満濃池 

つい先日、
田舎の姉から電話で
「忙しくなる前に帰って来いや」と言われ、

急遽その気になって
古里愛媛に帰った。

5日の朝7時に大原を出発し、
菊花峠を越えて
山陽道の山陽インターまで一般道を走り、そこから山陽道に載せる。

すぐに瀬戸自動車道に入った。

瀬戸内海の上を走るのは一年ぶり。
運転しているので、景色を楽しむことは出来なかったが
ゆっくりと走る車の後について
チラチラと景色を見る。

気分が休まる。
いつ見てもキレイだ。

急げば10分ほどで渡りきるが、倍ほどの時間をかけて渡った。
渡ればそこは坂出、坂出インターで降りる。

平安時代、弘法大師空海が
唐の技術を駆使して改修したと謂われる
讃岐の水がめ
『満濃池=まんのういけ』を見たくなって降りたのだった。



実写満濃池




満濃池最後③




暫く走ると標識が出てきて、分かりやすい。
香川県は
四国で一番小さい県なので
端から端まで走っても知れている、と思うと気にならない。

30分ほど走って「満濃池」に着いた。




満濃池最後




何年か前、バスツアーでかみさんと来たことがあるが
時間があまり無くて
ゆっくりした気分で見られなかった。

今回来て見ると
改めてその雄大さが良く分かる。
分かる、と言っても
全体の大きさが見えたわけではなかったが、

土手から見ると
まるで入江のような感じ。




満濃池最後②




湖面が凪いで静かで、澄んだ水がきれいだった。

いつまでも見ていたかったが
ソコソコ満足したところで切り上げ、又、高松道に載せた。    

もう一箇所見たいところがあったので
豊浜SAで聞いたら
後ろになっていたので諦めて、一路ふるさとに向かって走った。

着いたのは午後1時半頃。
姉夫婦が待っていてくれた。

姫路城は人の波

姫路に帰ったついでに
急に姫路城に行きたくなった。



動物園から見たお城②
動物園側から見たお城



駐車場に入ろうとしたら
ガードマンが、「こちらからは入れない」と言う。
見ると
対向車の一本が入るために埋まっている。

こんな所で時間つぶしは出来ないと
大手前の駐車場に行ったら、空きがあった。

三の丸広場は
今日は「観月会」とかで大掛かりな準備の真っ最中。
マイクの声が耳障りだったが、気にしないようにして入城口へ向かう。

ところがここも、人、人、人の列。
その列を横目で見ながら
入口近くまで行くと、入場まで一時間半とある。

シーズンの日曜日の真昼間にノコノコ来た自分が悪い、
と諦めて帰る道中も、
次々と人々はお城をめがけて一直線、
諦めて正解だった。

かみさんのように
閉城近くに、自転車でフラフラ来るのがベストかもしれない。

宮本武蔵の足跡

ここ大原は
宮本武蔵の生まれた場所の一つと言われている。

ほかに明石と姫路の近くの太子町にも
言われている所があって、それぞれがココだと言っている。

吉川英冶が小説を書く時
いろいろ調べて、ここだろうと言われたのが
美作の宮本です。

大原には、宮本と言う集落があって
すぐ近くには
智頭急行の「宮本武蔵」駅があり
特異な景観の武蔵武道館も、その威容を誇っている。

武蔵武道館


旧熊本藩主細川護成侯の染筆による「宮本武蔵誕生地碑」も建っていて

ほかに武蔵の生家や
姉が嫁いだと言われる家もあって、その上の方には武蔵神社やお墓がある。

生家

お墓については
熊本で亡くなった武蔵の遺骨を
故郷の土に、と
養子の、み喜之助が分骨して納めたものだと言う。

今日カミさんが
掃除や片付けに来て、大体片付いた頃、
武蔵神社に行ってみたいと言いだした。
カミさん、この辺の人なのに行った事がないという。

家からは4キロ足らずで、車で五分ほど。
着いたところは
楽市楽座が日曜日毎に開かれる所で、そこの駐車場に車を停めて登っていく。

生家は、すぐの所にあって
隣が、姉さんの嫁ぎ先の家。

そこから鎌坂道をだらだら登る、ここが武蔵が越えて行ったと言われる有名な鎌坂峠。

鎌坂道

目指す武蔵神社は、登りだして直ぐの所にあり
お墓と隣り合わせになっていた。

神社②


武蔵と両親の墓

そして
神社のすぐ下には「つつじ園」がある。

今日は雪の残る寒い日だったので
誰も居なかったが、つつじの咲く頃にはつつじ祭りがあって
賑やかになる。

平成15年、NHKで大河ドラマ宮本武蔵が放映されていた時は
土日は当然、
平日でも、観光バスが50台100台と来て、田舎の人達はもうビックリ。

傍には、「五輪坊」という宿泊施設や
温泉施設「クアガーデン武蔵の里」もある。

水車

今日は冬至、気温は1℃あるかないか。
雪も舞う日暮れ前は厳しいものがあったが、カミさん、参拝できてよかったな。

無残だった楷(かい)の木

テレビで
岡山県下の紅葉の進み具合を知らせている。

もう殆どの処が紅葉していると報じているので
行って見たいと思っていたら
今朝、カミさんがやってきたので
朝から時雨が降っていたが、11時過ぎ出かけた。

湯郷から和気に出て、備前市の閑谷学校(国宝)へ。
80キロ余あった。

ここにある「二本の楷の古木」が
毎年、見事な紅葉を見せてくれるので、楽しみにして行ったものだったが
今年は、サッパリ駄目よ駄目駄目だった。

閑谷①

というのは、紅葉前に葉っぱが落ちてしまったそうで
樹木医にも相談して対策を講じている、と担当の人は言っていたが

今年の異常気象は、こんな所にも影響したのか
こんな哀れな状態で

周りのもみじが見事なだけに、可哀想な姿だった。

閑谷②


にもかかわらず
今日は日曜日とあって、帰りに駐車場を見ると
観光バスが5台、中型バスが2台停まっている。
先程の大勢の観光客は、このバスのお客さんだったのだ。
雨の中、ご苦労様でした。

閑谷(しずたに)学校は
岡山藩主が
庶民の為に建てた世界最古の学校で
その造りを見るだけでも、価値のある立派な史跡だが、

もう何回も来ているし
雨も降っているので早々に引き上げた。

帰りは違った道を通ったが
周りの山々の紅葉も見事で、特に銀杏がよく目立ち堪能した。

楷の木③

②楷の木

上記が、本来の閑谷学校の「楷の木」の紅葉。
こんな紅葉を見たかったが、残念の一言。

竹山城址に登る

今日、カミさんが来た。
食事に行った帰り、竹山城跡に行きたいと言うので、登った。

車でクネクネと細い山道を登っていく。
カミさんが、不安を訴えながら運転する。

替わってもいいが
食事の時、お酒を飲んできたのでそれも出来ない。

山道を登りきったところが城跡。
一寸した広場には、車が2台停まっている。

竹山城跡2

他にもお客さんか、
と思いながら、降りてみると工事をしている。

山頂には、テレビの受信塔が立っているが
その横でコンクリートの基礎をしている。

聞けば
消防署の連絡アンテナを建てているとの事。

山頂からの眺めは格別で
眼下には、宿場町の面影を残す家並や、武蔵生誕地が望め

東には美作富士と呼ばれる「日名倉山」が、
北東には県下最高峰の「後(うしろ)山」が聳える。

1月半ばの今、
日名倉山や後山には、真っ白な雪があり、近くは東粟倉が一望できる。
まさに町内随一の展望台。
天気もよかったし、来てよかった。

竹山城跡1

山頂には、桜の木が何本か植えてあるが
これを下の参道から繋いだら、良い道になるだろうなあ、
と思いながら帰って来た。

三ッ山大祭(みつやまたいさい)

姫路城のすぐ南に
「総社」と呼ばれるお宮さんがある。

この神社の祭りに
60年に1回、(一つ山祭)があり
20年に1回、(三山祭)がある。

今年はその(三山祭)に当たっており
いたるところに広告が出ている。

私の記憶では
この神社の祭りは
いつも12月に行われているので

このお祭りもその頃とばかり思っていたが
広告を見ると、今まさに開催中であった。

総社に着くと
お社の前に、3基の山が拵えてあり
二色山、五色山、小袖山、とそれぞれ飾り付けが違う。

小袖山は、山の周りに
小袖をいっぱいに張り付けてあり
現代では
見るのも珍しいのに
よくもこれだけ集めたものだと思った。

神社の周りには
出店もいっぱいで、
まだ午前早目なのに、沢山の人が出ている。

テレビの撮影か、
大勢の神主が、並んでかしこまって
写真に撮られている。

総社の前の道は、人でいっぱい。

姫路がいつもこんな賑わいだったらいいのに
と思いながら総社をあとにした。

天空の白鷺

昨日は
日赤病院で健康診断、
今日は車の高齢者講習があるので、姫路に泊まった。

カミさんが
「駅前がひどく変わっているから
 見てきたら」と言うので行って見た。

姫路城は、現在改修中。

その改修状態を見る事が出来るとあって
それも見ようと思い、出かけた。

カミさんが送ってくれたので
8時半に家を出て
お城の手前で降ろしてもらい
ぶらぶら歩きながら、お城に着いた。

お城の桜は今が満開。
気の早い花弁は、ぼちぼち落ちている。
ここの桜はみな年寄りなので、きれいな花を咲かせる。

その桜の下を歩きながら
入場受付まで行くと
すでに50人程待っている。
私が後ろに並ぶと、すぐ開門になった。

皆は、入場券を買うため
そこでまた待たなければならないが
私は入場パスがあるので、直ぐに入れた。

とにかく
天守閣の下まで行かなければ、と登っていくと
エレベーターに着いた。

今日1番のエレベーターに乗れて
上に上がる。
高さ45mとのこと。

いつもは、遠くから眺めていた天守閣が
目の前に見える。
何とも壮観。

屋根の葺き替えはきれいに終わっている。

そして
天守閣からの展望。
これはいつみてもいい。
ビル群の向こうに、遠く播磨灘が見える。

しばし殿様になった気分で時を過ごして
天守を後にした。
随所に、ボランティアの人がいて案内をしてくれる。

三の丸の桜のトンネルをくぐって
お城の外に出ると
もういっぱいの観光客が来ていた。

愛宕さん

古町に
愛宕さんが祭られている。

「円明寺」の横を登って行くと、山頂に祠がある。
そこに祭られているのが愛宕さん。

旧大原町の文化財史によると、
亨保18年(西暦1718年)の大火は、古町を全焼する大被害を被った。

次は、
その105年後の文政6年(西暦1823年)2月21日の午前10時、
杓屋亀太郎《現住人と関係なし》方より出火した。

生憎、その日は山焼きで、
元気な者はそちらに出払っていた上、風運も悪く、
重なる悪条件となって、古町の半分40軒160棟を消失した。

当時、
所轄の土浦近長役所からは、
翌朝、伊庭兵右ヱ門が派遣された。

この火事は、後々(杓屋焼け=しゃく屋やけ)と云われた。

この2回の大火は、里人に非常なショックを与え、

村では、総評議の上、
再びこのような大悲惨事を起こさぬ為に、
防火の神である(京都愛宕神社の分身)を勧請して、
その加護を乞う事に評議一決した。

現在、
慈現寺山の円明寺に行く旧参道の、
六体地蔵の所から登る愛宕さんが、その時のものである。

以来、
古町に限り、
毎月24日には火伏せの祈祷をし、
この日は肥え持ちを遠慮し自粛の日とした。

現在でも、
古町の第2と第3の常会では、
年に2回、正月と8月の24日に、当番を決めて道造りをし、
賽銭を集めて180丁を灯す愛宕講を開いて、火の用心を誓う習俗が残っている。

私達は先人が、
火伏せの祈願をこめて勧請した
愛宕さんの歴史を語り続けたいものです。

愛宕さんまでは、
そんなに険しくもなく、
辿り着けば、一寸した丸い広場もあり、
古町が大体見渡せて、気分も晴れ晴れとします。

時間を作って是非お詣りを・・・

(山王宮)大原神社縁起

美作市古町に、
「大原神社」があります。

(やすらぎ荘)と言う
特別養護老人ホームの前の交差点を東に行くと、
直ぐに、智頭急行のガードがあり、
そこを潜ると直ぐ左側に登り口がある。

一寸した駐車場があって、
入り口の両側に松の古木が聳えている。

石段を登ると、
石の大鳥居があり、もう少し上ると
狛犬さんが両脇に建って(座っているが)いて
参拝者を迎えてくれます。

上りきると、山門があって、
ここを潜ると広場がある。

そこには、昔、
草相撲が行われていた土俵の跡が残っていて、
そのすぐ上に「本殿」があります。

周りは杉や檜の大木が聳え立ち、
中々の雰囲気を醸し出しています。

旧大原町の文化財史には、
「大原神社の井桁の額」として掲載されています。

それに寄れば、
私たちの郷土は、地域社会の歴史を物語る中世
(鎌倉時代・室町時代400年)の文化財となると
本当に少ない。

その数少ない中の一つが、大原神社保存の額で
(旧)英田郡史考・英田郡史・大原神社史、に掲載されています。

この扁額は、
縦88センチ、横57センチ、厚さ3センチ。
材料は欅(ヒノキ)で、額縁は『井桁造り』であって、

この(造り)は、全国的にも珍しく、
大正15年から昭和33年まで、恩賜京都博物館に陳列されていた、そうで、

表面  山王宮
裏面  文明十二年
大願主 宇野中務太夫家貞   と記載されています。

文明十二年は、
西暦1480年で、今から約530年余も昔の事です。

長年、風雨に晒され、木地は腐蝕しかかっており、
墨書の文字は色褪せていますが、
それでも現在、漸く読むことはまだ出来るのです。

この年、播州赤松方の武将「宇野家貞」は
山陰の山名勢の圧迫に備えて、山王山城主となり、
城表の南麓に、宿願であった『大原神社の社殿と大鳥居』を奉納した時、
大鳥居に懸けられたのが、この(扁額)であります。と。

実物は、神社社宝として保存され、
現在の鳥居に懸けられているのは、
昭和49年、大鳥居建て替えの際に模して拵えたもの、である由。

戦乱の時代、
石造物以外の文化財が、
殆ど、兵火などに懸って灰塵に帰したであろうに、
この額は、ホントよくも残ったものよ、としみじみ思われると共に、

遠い遠い昔昔、
この辺りは一体どんな景観で、
どのようなご先祖様が住んで、話して、そして往来したであろうか、
と、つい遠い昔に思いを馳せてしまいます。

ここ美作市古町は、
このように、遥か昔から続いている地域なので、
是非1度観に来てください、「山王山大原神社の由緒ある扁額」を。

本陣も、脇本陣も残されています、、、

新しくなった因幡街道

古町の中を通っている道路(旧道)が旧因幡街道です。

この度、
舗装を新たにして、
道路一面に御影石を敷き詰めたようになりました。

又、電柱も取り除き、
昔のガス灯のような街灯。

灯火がともる夜の街は、
昼間に見るのとは違った情緒があります。

昼は、
なまこ壁に仕上げられた家並みと、
(うだつ)の上がった家。
それらの物が、昔を偲ばせてくれます。

夜の景色も、又いいものです。

昔、この通りはずらりと商店が並んでいて、
とても賑やかだったそうですが、今はそれは無く、
代わりに、静かな雰囲気が味わえます。

もう直ぐ、鳥取自動車道も全線開通します。

昔の本陣、脇本陣も残り、
子供さんは歴史の勉強、
大人の方には(懐旧の念ひとしお)の趣があります。

是非一度、美作市古町(旧大原町古町)に
立ち寄って見てください。

三九朗稲荷

私の家のすぐ南、小高い山の中腹に
「三九朗稲荷」がある。

毎年、地元の方たちによって、お祭りも行われます。

祭り、と云ってもほんのすこーしばかり、
地元、阿形(あがた)の皆さんによって行われています。

私は昨年、
姫路に庭仕事に行った時、そこの主人に
「松本さん、あんた狐が憑いてるよ」と云われた。

「捕って」と云うと
「もう捕りました」とのことで、一件落着となった。

その時、その方曰く、
「家の近くにお稲荷さんはないですか」
「直ぐの処にお稲荷さんがありますが」と云うと
「あまり近付かない方がエエで」と言われた。

それ以来、このお稲荷さんに行ったことはありませんが、
この度、借り受けた町史に、この「三九朗稲荷」が紹介されています。

以下、その由来。

 『元和元年(1615)大阪落城の時、
  豊臣方の、首藤光右衛門、小林三九朗等、数人の武士は逃げ出して
  下庄(しものしょう)の平尾九朗兵衛を頼ってこの地に来た。

  九朗兵衛は、この武士たちを竹谷に隠棲させた。

  その中の小林三九朗は、狐使いの名人で、狐も連れてきた。

  ある日、平尾九朗兵衛は山狩りに出て、子狐を一匹射止めた。
  ところがそれが、大阪から連れてきた狐だったので、
  古狐は怒って、九朗兵衛の下女に取り付いた。

  下女は、精神錯乱を起こして、追い回されて逃げ出した。

  三九朗は、この下女を滝の辺りまで追いかけて捕まえ、
  (平尾九朗兵衛の恩情と、子狐の無用心)を言い聞かせたところ、
  下女の病気は快癒した。

  以来、古狐は竹山城に移り住むようになった。

  元禄11年、この辺は幕領となり、古町に代官所が置かれ、
  代官、内山七兵衛が赴任してきた。

  ある時、代官が竹山に狩りをしたので、
  古狐は竹山にも居ることが出来ず、古町に逃げて来て暴れ回り、
  疫病も流行った。

  そこで、古町では
  京都から正一位を申し受けた稲荷社を、西山の桜尾に造営して、
  その古狐を神使として封じ込んだ。』          以上

日本には
稲荷社のない地方は少なくて、
水田耕作を中心に生活してきた所では、
古くから
春の耕作開始の時、田の神が山から下りてきて、
秋の収穫が終わると、再び山に戻られる、と云う
農耕信仰がありました。

これが稲荷信仰です。

狐が、秋の収穫時、人里近くを徘徊することから、
自然に狐を稲荷社の神使として、お祀りするようになったのではないでしょうか(※私見私見)。

とにかく、この三九朗稲荷縁起、大いに勉強になりました、、、


 

大原の歴史これまた楽し

昨日、法事に行った。
カミさんの従兄弟の1周忌。

二人で参加させていただいた。

この従兄弟、中田尚治さん。中田尚治先生。
長年、学校の先生をされ、退職後、大原町史を編纂されました。

私も、何度か話を聞かせて頂いたが、
宮本武蔵についても、とても造詣が深く、
こちらも知識が深まるので、嬉しかったものです。

この尚冶兄さん、
教職を引かれてから40年近く、
大原の歴史を、こつこつと調べてこられ、その纏められたものが
(大原町の文化財 1、2巻)と聞いています。

私は、
このブログを書きながらも、
自分はもちろんのこと、皆さんにも
もっと古町(旧大原町古町)界隈のコトを知ってもらい、
その良さを感じて頂けたら、といつも思っていました。

私は新参者なので、
この度の法事で、このことを想い出し、
長男の素生さんにお願いしたところ、快く、
本と集められていた資料を貸して頂いた。

これからは、
この資料を読んで勉強し、ここで紹介したいものです。

この資料の何処を、というのは
未知数ながら、少しでも沢山書けたらいいなと思っています。

大原にこられた時は、
私のところにもお寄りください。

美味しい『水』や、季節の野菜もありますので、、、

400年の昔にタイムスリップ

長男が帰ってきた夜は、
私が大原古町に来て直ぐの頃
蔵人をしていた(田中酒蔵)の新酒を買って帰り二人で飲んだ。

その時、
正月に行けなかった最上稲荷に行こうと
次の日三人で出かけた・・・ここまでは前記事・・・

最上稲荷の近くで地域地図を見ると、
豊臣秀吉が毛利攻めのとき、水攻めにしたといわれる、高松城が
直ぐ近くにあるという。

そこで、
最上稲荷の参拝を済ませて、
備中高松城跡を目指して出発した。

出発後、直ぐに長男が「ココや!」と言う。
見るとなるほど看板が出ている。

そこは今『高松城址公園』になっており、資料館もある。
その資料館、どこかから移築したとかで土蔵風の建物。

入り口に「ただいま開館しております」の看板があった。

中に入ると、城攻めの時の模型なぞがあり、
高松城は海抜5メートルと、あの山の中にあるのに相当の窪地になっている。

水を引き込んだ、と言う足守川も
そんなに大きな川ではないが、時あたかも梅雨の真っ只中であったのが、
毛利方に不利に、織田方に有利に働いたようです。

資料館の資料によれば、黒田長政の策で
横幅12m、上幅11m、長さ3119m、
これを12日間で仕上げており、
総費用は、銭63万5040貫文、米6万3504石を要したと。

豊臣秀吉は、
三木城や鳥取城を攻めた時も、
取り囲んで兵糧攻めにしたともある。

とにかく、
戦いにおいて、味方損を如何に防ぐか、と言うことに力を注いだみたいです。

ここの館長さん
とても親切で、色々な事を解りやすく丁寧に話して下さった。

秀吉の、天下取りの基点ともいうべき「高松城址」に立って、
ああ、私の年まで秀吉は生きていなかったんだと思い、
ちょっと複雑な気分になりました。
鄙びたところで、
昔の様子がそのままのように残っており一見の価値はあるでしょう。

皆さんも、最上稲荷、高松城址に是非!

そうそう、長男は備前焼のギャラリーで茶碗を買いました。

今年もどうか良い年でありますように。

最上(サイジョウ)稲荷にお詣り

横浜から息子が帰ってきた。

前の晩は、二人でお酒を飲んで時を過ごしたが
その時、息子が「前に行った所の備前焼が欲しい」と言い出した。

よくよく聞くと、
今年の正月姫路から大原に行った時、
帰りに立ち寄った土産物屋で買った備前焼が気に入ったので又欲しい、と言う。
それなら、備前焼きの本場備前市に行こう、ということになって
かみさんも行くというので三人で出かけた。

正月は、私が道を間違えて最上稲荷に行き着けず帰った。

今回、せっかくの機会だから、
最上稲荷さんまで足を伸ばして
遅まきの初詣をしようと山陽道に乗せた。
岡山インターで降りて、薄い記憶に縋りながら北に向かった。

私の記憶では、
岡山空港の近くだ、という感じで
道路標識の岡山空港を目指して北上した。

暫く走ると
岡山空港と並んで最上稲荷の看板が出た。
私の勘がピタリ、と得意になって指示方向に進むと別れ道があり、
またまた私の勘でつき進むと、最上稲荷奥の院と言う看板が出ている。

車を停めて確認すると、
今回は私の勘が外れていたようで、バックである。
認めたくはないが、バックするより仕方がない。

それでもこの間違い、全くの無駄と言うわけではなかったのです。

その訳は
豊臣秀吉が毛利攻めの時、清水宗治を水攻めにした場所が
地域地図に載っていたのです。
息子が大変喜んで、是非行きたいと言い出した。

このように、途中で変更できるのもドライブの楽しみの一つ。
そこで取り敢えず(こんな表現仏様に失礼ながら)
先に最上稲荷に行きましょうと車を走らせた。

私は、おきつねさんが迎えて下さるものと思っていたら、
やたらと賑々しい幟旗が私たちを迎えてくれた。
そしてこの寺、日蓮宗のお寺さんでした。

建物は立派で大きく、前の庭は広く、
この日本三大稲荷の一つである「最上稲荷さん」は毎年、
年始には黒山仰山の人たちがお参りに来られると言う。

とにかく、一度は参拝をお勧めしたいお寺さんでした。
続いて行った『高松城』と備前焼のことは次の機会に・・・・

大原に来て見てよ

ここ大原古町は、
昔の因幡の殿様が参勤交代の時、
宿にしていた本陣と、脇本陣とが
当時のまま残っています。

因幡街道と言って、つい先ごろまで、
バスも通行する程の広い道路になっています。

その街道を挟んで、
本陣と脇本陣があります。

何れも個人の所有なので、
中に入る事は出来ないが、
街道筋から当時を偲ぶ事が出来ます。

街道筋も、一部、電柱を取り除いて、
昔のガス灯のような、
粋な街灯も取り付けられて、
大変良い風情を醸し出しています。

又、三キロほど南に下ると、
「クアガ-デン」と言う温泉もあり、
その近くには、かの有名な宮本武蔵の
生まれたと言われる家も残っています。

まずは一度、大原古町に遊びに来てください。

大原神社

今ここは、美作市古町となっているが、
以前は英田郡大原町古町であった。

其の大原町の中心が古町で、
役場、小中学校、高校等が集まっていて、
周辺の道路標識の案内も、
大原方面と言うのが常識になっていた。

今は、
中国道の鳥取自動車道の案内に
大原が出てくるぐらいで、
どこもかしこも大原の名がなくなってしまっている。

先の合併で、大原の名がなくなったのだから、
仕方がないにしても、
寂しい気持がするのは私だけでしょうか?

さて、大原町古町(現美作市古町)には、
東粟倉方面に入ると直ぐ左手に、
石の鳥居があって、其の傍に石段がある。
其の階段を上っていくと、大原神社がある。

鬱蒼とした木木に囲まれ、心落ち着く場所である。
入り口には車をとめるところもあり、
一度参拝してはいかがですか?

大変霊験あらたかですから、
貴方の日ごろの行いが良いならば、
願い事が叶えられるかも・・・

送り火

庭で遊ばれたであろう仏さんも、
十六日の夕方の送り火によって、
それぞれの帰り先に帰られた。

私が子供の頃の送り火には、
麻柄(おがら)を炊いていましたが、
この頃は麻の栽培が禁止されているので、
麻柄を手に入れることが出来ないが、
麻柄は大変火の着きがよく、
直ぐに燃え尽きるので、
あっという間に終ったのを覚えている。

同じ送り火でも、
京都の五山の送り火に送られる仏さんと、
うちの庭先で雑草の煙で送られる仏さんとでは、
どちらが早く帰れるのかな、
と思ってみたりもします。

暇なんですかね。

刈萱の自生する山に

このあたりは大変自然の豊かな処で、
周りは山々に囲まれて、
下をきれいな川が豊かな水を湛えて流れていて、
其の川に沿うように町が開けている、と言った感じです。

と言っても、昔に比べると、
随分と失われたものも多くあります。
それらは生活の変化だったり、取り巻く環境の変化だったりですが、
一方で新たなものが、と言うことはまずありません。

そんな中で、今日はもう直ぐ盆なので、
お供え飾りにする刈萱(かるかや)採りに誘われました。

私は、秋の七草にある名前だとは知っていましたが、
姿かたちを見たことが無いので、持前の好奇心にも後押し
されて、付いていくことにしました。
なんとそこは、岡山県と兵庫県の境でした。
その人は、あまり良くない、と言いながら一心に採り始めたので
私も教えてもらって刈萱を摘み取りました。

後でその人曰く、
「あんたはいいのを摘んだな。」
私曰く、他人の物はよく見える、って。
それでも、その人は大変無念そうでした。

今年のお盆、ご先祖様は喜んでくださるでしょうか・・。

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プロフィール

Author:松本直美
定年後、岡山・美作で農業を始めて18年。
米作りだけでなく、野菜や花、
果樹、造園についても書いていきます。
造園技能士一級の資格を持っています。

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